映画、演劇、テレビで30年以上のキャリアを持つサディ・フロストは、プロデューサー、俳優、ファッション・デザイナー、作家の顔を持つ。フランシス・フォード・コッポラ監督『ドラキュラ』(1992)や、エミー賞やゴールデングローブ賞にも多数ノミネートされたTV映画「UPRISING アップライジング」(2001)、ポール・ W・S ・アンダーソン監督のデビュー作『ショッピング』(1993)に出演。1999年に元夫のジュード・ロウ、ユアン・マクレガー、ジョニー・リー・ミラーと制作会社ナチュラル・ナイロンを設立し、デヴィッド・クローネンバーグ監督のSFサスペンス映画『イグジステンズ』(1999)や、『ノーラ・ジョイス 或る小説家の妻』(2000)を制作。その後、アンジェリーナ・ジョリーとグウィネス・パルトロウ出演の『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』(2004)を共同プロデュース。更には、自身のファッションブランド「フロスト・フレンチ」を立ち上げるなど、2000年代も活躍。
英国人モデル ケイト・モスは、1988年(当時14歳)、JFK国際空港でモデル・エージェンシーのストームマネジメントにスカウトされ、1990年に伝説的なイギリス人写真家コリーヌ・デイが雑誌「The Face」用に撮影し、彼女のキャリアは始まった。18歳のとき、モスはカルバン・クラインの顔となり、俳優でミュージシャンのマーク・ウォールバーグとともに、香水の広告やモノクロの下着のキャンペーンに出演。この広告キャンペーンで大きな注目を集め、瞬く間にこの10年間を代表する人物となった。痩せていて、従来のモデルとは正反対の体型の彼女は、グランジなストリートウェアを前面に出し、「スーパーモデル」の時代の後に、「ヘロイン・シック」や「ウェイフ(浮浪者)・ルック」と呼ばれる新時代を呼び込んだ。
デイム(叙勲を受けた女性)ヴィヴィアン・ウエストウッドは、1970年代にマルコム・マクラーレンが経営するキングス・ロードの有名店「セックス」でパンク風のデザインを販売して以来、英国ファッションの中心的な存在となっている。
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、人前で着るのにふさわしいとされる服装に革命をもたらした。ボンデージパンツなどのBDSM要素を、安全ピンや鎖とともにファッションの主流に初めて紹介したのは彼女だった。17~18世紀の裁断技術を用い、特にメンズ・パンツのために開発した過激なカッティング・ラインは、今日もなお使用され、模倣され続けている。
活動家としての自覚を持つウエストウッドは、しばしばスローガンや政治的な呼びかけをデザインに散りばめているが、その美しさは何ら劣ることはない。ウエストウッドの主な政治的関心は、年々変化しており、現在は主に気候変動、核軍縮、市民権、特に言論の自由のための活動家である。
ガーナ出身のエニンフルは、18歳でイギリスのユースカルチャー誌「i-D」のファッションディレクターとしてキャリアをスタートし、国際的な主要ファッション誌で編集者に就任した史上最年少記録となった。幼少期に両親と6人の兄弟とともにロンドンに移住したエニンフルは、16歳のときに電車の中でモデルとしてスカウトされ、「Arena」誌と「i-D」誌で短期間モデルを務めた後、スタイリストのサイモン・フォクトンとベス・サマーズのアシスタントになり、この頃、「i-D」創始者のテリー・ジョーンズに紹介され、サマーズが去った後、ファッションエディターに任命された。
2005年7月には、整形包帯姿のリンダ・エヴァンジェリスタを特集した「メイクアップ・マッドネス」号を発行。2011年には、2000年代後半に低迷していたコンデナスト社の高級雑誌「W magazine」のスタイルディレクターにも抜擢され、R&Bアーティストのニッキー・ミナージュをフランスの貴婦人に扮させるなど、表紙を飾るスターのパブリックイメージにひねりを加えている。2017年2月、エニンフルは、ドナルド・トランプ米大統領の反移民政策に反抗し、ファッション業界で最も認知度の高い81人を集め、同誌のために「I Am An Immigrant(私は移民)」と題した、力強いショートフィルムを制作した。2017年に英国版「VOGUE」の編集長に抜擢され、表紙に一貫してエンパワーメントのメッセージを推進する強い女性を起用してきた。ステラ・テナント、オプラ・ウィンフリー、アドワ・アボア、ナオミ・キャンベル、リアーナ。サセックス公爵夫人メーガン・マークルがゲスト編集した2019年9月号では、グレタ・トゥーンベリやジェーン・フォンダなど15人の先駆的女性チェンジメーカーが表紙を飾り、この号は瞬く間に完売。わずか4年あまりの間に、英国だけでなく世界的に、視点の多様性を核としたファッションメディアの新たなビジョン形成に貢献した。
デイヴ・デイヴィスは、兄のサー・レイ・デイヴィスと在籍するイギリスのロックバンド、ザ・キンクスのリードギターとバッキングシンガー(たまにリードを歌うこともある)で、「You Really Got Me」や「All Day And All Of The Night」などのザ・キンクスの名曲におけるギター・リフで知られている。
ファッションに関しては、キンクスはアヴァンギャルドだった。 1964年後半、ロンドンの他のグループのほとんどが、ジョン・スティーヴンがデザインしたシャープでミニマルなモッズ・スタイルを身に着けていたのに対し、ザ・キンクスはもっとダンディな服、つまりヴィクトリア調のモーニング・ジャケットやフリル・シャツ(乗馬ブーツと組み合わせることもあった)を着ていたのである。これは、1966年頃にロンドンで大流行したピーコック・ルックの最初の光景の一つである。カーナビーストリートやキングス・ロードのブティックの常連客だったデイヴ・デイヴィスは、ヴィクトリア朝、18世紀の宮廷服など、ピーコック・ルックを極限まで追求した。その服装とトレードマークのオスカー・ワイルド風の髪型で、1960年代のスウィンギング・ロンドンで最も人目を引く男性ポップスターだった。
シャーロット・ティルベリーは、英国で最も有名なメイクアップアーティストの一人。トムフォード、ロベルト カヴァリ、マイケルコース、ディースクエアード、ステラ マッカートニー、ロエベ、H&Mの広告のルックを手がけている。また、バーバリーとトムフォードという2大企業の広告を担当している。出版業界でも、フランス、イギリス、スペイン、ブラジルの「VOGUE」誌をはじめ、多くの雑誌の表紙を手掛け、記事を書いている。
9歳のときにイビサ島から移住したティルベリーは、イギリスの寄宿学校に通っていたときにコスメの力を知った。「メイクアップは、文字通り私の人生を変えたの。マスカラをつけたら、私に対する世界中の反応が変わったのよ。そのとき、なんだか傷ついたのを覚えているわ。そして、私も他の人と同じなのだと気づいたの」ティルベリーは、ロンドンのグラウカ・ロッシ・スクール・オブ・メイクアップに通い、その技術を学んだ。
ジャスパー・コンランOBE(騎士団勲章)は、王族からロイヤル・バレエ団にまで好まれ、最も尊敬される英国人デザイナーの一人。彼の才能はファッションにとどまらず、舞台芸術、インテリア、そして最近ではマラケシュに初のホテルをオープンさせるなど、旅行業にも進出している。ロンドンで生まれ、ニューヨークのパーソンズ美術学校で学び、ニューヨーク・フィフスアベニューの百貨店ヘンリベンデルで最初のコレクションを発表した。ロンドン芸術大学教授、ローレンス・オリヴィエ賞(コスチュームデザイン部門)など、数々の名誉博士号を授与されている。父はインテリアデザイナーでザ・コンランショップの生みの親であるテレンス・コンラン。
デイム(叙勲を受けた女性)ザンドラ・ローズは、50年にわたり英国ファッション業界の中心人物であり、2019年9月には、ザンドラが設立したファッション・テキスタイル博物館にて「Zandra Rhodes: 50 Years of Fabulous」と題した回顧展とエール出版社から発売された回顧本で、彼女のファッション人生50年を祝った。プリントデザイナーとしての彼女の名声は、上質な生地と色への親和性と相まって、ユニークで、時代を超える特徴的な美学を生み出した。
60年代後半から英国および世界のファッションシーンのパイオニアとして活躍するザンドラは、ヴァレンティノ、トップショップ、Macコスメティックスなどのブランドとコラボレーションを実現してきた。2021年にはZandra Rhodes x IKEAを発表している。